マラソンに挑戦する会 誕生ばなし

 〈マラソンに挑戦する会〉=大会名ではなく、練習会のような名前です。

 それもそのはず、もともとは金沢中央走ろう会の内部行事でした。会のアンケートの中で「長時間走ってみたい。できたらフルマラソンを走ってみたい」という意見があり、急遽1ヶ月後に走ろうと決定したのです。(走り込む期間もなく、無茶な話ですね)

 当時は第一次マラソンブーム黎明期で、市民が走れるロードレースが少しずつできはじめた頃です。しかし、フルマラソンにいたっては福井中日マラソンと富山中日マラソンという陸連登録者を対象にした大会はありましたが、石川県にはフルマラソンの大会はありませんでした。

 第1回を1979年(昭和54年)5月13日(日)金沢市法島町の犀川左岸で行いました。参加者は会員38人(うち女性9人)。おそらく、石川県内において、陸上競技経験者ではない市民ランナーがフルマラソンに挑戦した最初の会かと思います。

 何せ初めての大会を企画するのですから、すべてが手探り。コースは、河川敷の片道1㎞の往復コース。記録はきちんと2㎞ごとのラップをとりました。「給水は」というと、その頃は、スポーツドリンクはありませんし、ペットボトル飲料もありません。使い捨てる安価な紙コップもなく、プラスチックのコップをバケツの水ですすぎながら使っていました。初期の頃はパン、レモン、飴を用意していました。今ではおなじみのバナナなどを用意したのはそれからずいぶん後のことでした。

 スタートは6時半。爽やかな天候で、涼しく絶好のコンディションでした。走ろう会が始まって4~5年の頃ですから、皆、一応の基礎はできていましたが、日々の練習で10㎞以上走る人はまだまだ少なかったです。

 11時頃を最終時刻と設定しました。つまり、今でいう制限時間は4時間30分。当時「制限時間」という制度?はなかったです。まあ、それなりの時間で走ってほしいということですね。

 フルマラソンを完走したのは5人で、最高タイムは3時間47分でした。あとの方々はそれぞれの限界まで走りました。

 当時の感想文を見ると、多くの方が30㎞あたりから脚が重くなり、たいへんだったことがうかがえます。

 ところが、初めてのフルマラソン挑戦は無謀だったと思った人も、しっかりとこの経験を生かして、次のフルマラソンに挑戦していったのです。(2021年8月30日 代表野村泰裕記)

マラソンに挑戦する会 発展編

 「いきなりフルマラソンは無謀だ。長時間走って持久力をつけよう」ということで、1980年から3年間は「2時間走」という名称で会員行事として行いました。これはとてもいい経験だったと思います。「2時間続けて走らないとフルマラソンに挑戦はできない」という暗黙のしばりができました。「2時間」という時間が正しいかどうかはわかりませんが、目安となり、自信となりました。

 そして、1983年(昭和58年)第2回マラソンに挑戦する会が行われました。部門はフルマラソン、2/3マラソン、1/2マラソン、1/3マラソン、1/4マラソン、1/10マラソンに分けました。1/2マラソンとはハーフマラソンですが、まだそういう名称がなかった頃です。会員外にも呼びかけ、95人が参加しました。

 そして、完走賞として完走トロフィを出すことになりました。普通は入賞者しかもらえないトロフィですが、完走すればもらえるというのはたいへん嬉しく記念になると好評で、今に至っています。

 1984年の第3回からはコースを犀川右岸に移し大豆田大橋下を発着としました。そして、50㎞部門が追加されました。その名も「スーパーマラソン」 サロマ湖のウルトラのプレ大会が1986年なので、それ以前の話です。

 1987年の第5回からは県外からの参加者もあって、300人規模になりました。宿の世話もしていました。この頃はメールもパソコンもない時代ですから、葉書と電話と手書きで対応していて、事務局はたいへん忙しくなりました。

 また、往復回数も数えることができなくなり、一周回するごとにゴム輪を腕にまき、自己カウントするという画期的な方法が編み出されました。これはその後の各種大会でも利用されることになりました。

 この頃まではスタートを6時30分、終了を13時とし、6時30分以前に走ることも認めていました。いわゆる「アーリースタート」です。

 その後も参加者は全国からもどんどん増え続け、遠来賞、高齢者賞もサプライズで出すことになりました。

 参加者の中には、フルマラソン出場回数全国一の小島さんや車椅子で挑戦の姿もありました。

 参加費の5%をユニセフなどの募金にも回すようになりました。

 2012年の第32回から、5月3日開催を、9月の緑と太陽に親しむ健民祭の中で行うこととなりました。

 さらに、駐車場の問題もあって、2017年から現在の西部緑地公園陸上競技場発着の大会となりました。

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 コロナ禍の中でもなんとかして行えないか、案を練っている中で、過去の大会の中に今後のヒントを見つけることができました。本当に、手探りの中、会員の創意工夫でつくりあげてきたことを誇りに思っています。

 残念なことに2020年、2021年と2年連続の中止となりましたが、次回39回大会ではこの創意工夫の精神を生かして、〈フルマラソンに挑戦する会〉を復活させたいと思っています。 

 また、大勢で、楽しく、マラソンに挑戦する会を開催できる日をお楽しにしてください。(2021年9月1日 代表野村泰裕記)

1985年5月5日第4回の〈マラソンに挑戦する会〉の様子。

大豆田大橋の下発着コースで、片道1㎞の往復コース。